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BS実況(NHK): 2025/11/23(日) 09:02:24
大河ドラマ べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~ ★111 (1002)
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201: 衛星放送名無しさん ID:2dsXITN00
>>198
早産過ぎて亡くなる
202: 衛星放送名無しさん ID:tZNBGlkr0
おお
203: 衛星放送名無しさん ID:OKKPAG6b0
佐賀?
204: 衛星放送名無しさん ID:tfjrqXPX0
>>197
ゲスかw
205: 衛星放送名無しさん ID:HND/IU5L0
腐女子にとって最高の環境だもんな
206: 衛星放送名無しさん ID:GyyosBC20
佐賀というものである.
207: 衛星放送名無しさん ID:OKKPAG6b0
謝ることを覚えた蔦重
208: 衛星放送名無しさん ID:ATYjl3fD0
きたーーー
209: 衛星放送名無しさん ID:94M3S0HR0
字幕は「サガ」だった
210: 衛星放送名無しさん ID:Mp2YnfHZ0
歌 キタ━━━━━━(゚∀゚)━━━━━━ !!!!!
211: 衛星放送名無しさん ID:fP9SX88o0
戻ってキタ━━━━━━━━(゚∀゚)━━━━━━━━!!!!
212: 衛星放送名無しさん ID:UJH9xjnn0
ホモの帰還
213: 衛星放送名無しさん ID:NeRmu+QR0
また来週
214: 衛星放送名無しさん ID:tZNBGlkr0
盛り上げるねぇ
215: 衛星放送名無しさん ID:VWIe4NN40
きゅーーーん
216: 衛星放送名無しさん ID:TfkNfJ310
やはり歌麿かよ?
217: 衛星放送名無しさん ID:tfjrqXPX0
いいとこで
218: 衛星放送名無しさん ID:53ILRU9/0
人のパクリなら歌
219: 衛星放送名無しさん ID:OKKPAG6b0
2週連続アベンジャーズ結成エンド
220: 衛星放送名無しさん ID:QlsoTbEZ0
ないわぁw
221: 衛星放送名無しさん ID:Mp2YnfHZ0
ぬぽ紀行
222: 衛星放送名無しさん ID:tZNBGlkr0
お、湯島
223: 衛星放送名無しさん ID:bmdDHQVj0
他の先生たちは蔦重にねちっこく攻められ損なの?
224: 衛星放送名無しさん ID:g8ez2Xmq0
なんぽ先生すごいじゃん。
225: 衛星放送名無しさん ID:733kgyxx0
今の東大の前身、医学所とか開成学校とか
226: 衛星放送名無しさん ID:DaihSV/J0
いやあ、本当に素晴らしい
ここ10年ほどの大河ではベストだわ
今の日本でこのレベルのドラマをテレビでやれるのは他にない
視聴者をもっと遥かにバカに想定して作ってるから
227: 衛星放送名無しさん ID:VWIe4NN40
おい!QRで見えね
228: 衛星放送名無しさん ID:HN6ksKu00
来週も写楽かよ もう最後までこんな感じで行くのか?
229: 衛星放送名無しさん ID:UJH9xjnn0
QRで詩が見えない
230: 衛星放送名無しさん ID:TfkNfJ310
大河だから写楽ってこうだったんだ?って信じる人続出しそう
231: 衛星放送名無しさん ID:tfjrqXPX0
>>227
杜撰だよね
232: 衛星放送名無しさん ID:733kgyxx0
大の里休場
233: 衛星放送名無しさん ID:w42oeWp/0
>>228
先週からサスペンスっぽくなってワクワクする
234: 衛星放送名無しさん ID:DaihSV/J0
>>230
写楽は歌麿とは比べものにならんくらい下手なんだけど
その辺は合作で正体不明にするためにわざとってことになるのね
235: 衛星放送名無しさん ID:733kgyxx0
大田南畝は人足寄場の見取り図を描いている、書いている
236: 衛星放送名無しさん ID:HND/IU5L0
元絵は歌が描いて他の先生方がそれをリライトすることで手癖を消すとか?
237: 衛星放送名無しさん ID:JeCIMID70
ずーっとオープニングでも起用してる葛飾北斎なんかいちゃいいつになったら劇中出てくるのか
238: 衛星放送名無しさん ID:DaihSV/J0
>>236
有名な「手」とかはどうするのかねえ
あれを上手い人がわざとああしたとするのはあまりにも
あれは下手ゆえの天才的表現というか

上手い人間がわざとああするにはピカソ並の飛躍がないと
239: 衛星放送名無しさん ID:733kgyxx0
おていさん「しみったれた松平定信と組んで派手にやりましょう」
240: 衛星放送名無しさん ID:733kgyxx0
三浦様は曲がった事を許さないから
241: 衛星放送名無しさん ID:HND/IU5L0
>>238
今までの綺麗な絵ではまだ封じられていた歌の真の天才っぷりが発揮される、とか?
242: 衛星放送名無しさん ID:733kgyxx0
>>167
鳥山明と鳥嶋和彦編集担当は相性良かったのかな?
243: 衛星放送名無しさん ID:733kgyxx0
>>121 第1章 赤穂浅野家四代 「若狭野浅野家資料」のうちで注目すべき古文書の一つに赤穂浅野家4代の口宣案があります。口宣案とは、大名が朝廷から官位官職を受けた際に、幕府 経由で発給された文書の一つです。大名の身分に関わる重要な文書で、どの大名家でも大切に保管していました。江戸時代前期に改易された大名家の口宣案が伝 来することは珍しく、たいへん貴重な古文書です。この口宣案を中心として、浅野家4代の事跡を展示します。
 第2章 旗本浅野三家の活躍         赤穂浅野家には3つの分家旗本(若狭野浅野家・家原浅野家・浅野大学家)がありました。いずれも赤穂本家を助けるために赤穂浅野家の領知を分け与え られて成立した家々です。そのため刃傷事件の際には、「遠慮」「閉門」処分を受けるなど、多大な影響を受けました。とくに若狭野浅野家は、大石良雄の父の 従弟長恒が大石家から浅野家に養子となって成立した家で、事件の際にはその事後処理にあたるなど、影響は甚大でした。ここでは、赤穂浅野家と運命をともに した分家旗本3家の成立事情を若狭野浅野家を中心に展示します。
  第3章 将軍綱吉と浅野家          元禄赤穂事件(殿中刃傷事件・吉良邸討入事件)は、「犬公方」と称された5代将軍綱吉の存在抜きには語れません。というのも、事件の裁定にあたって は将軍の意向が強く働いたからです。ここでは、その将軍綱吉の事跡を中心に、赤穂事件の時代背景をお伝えします。あわせて、同時代に綱吉政権下のよき官僚 として活躍した若狭野浅野家初代長恒の事跡について、とくに伊勢山田奉行としての活躍を中心に取り上げます。
244: 衛星放送名無しさん ID:733kgyxx0
>>243 >>121 第4章 赤穂事件とその事後処理           赤穂浅野家の江戸上屋敷は鉄炮洲にあり、赤穂事件以後、小浜酒井家の上屋敷となりました。「若狭野浅野家資料」には、赤穂事件で収公される直前の 「鉄炮洲屋敷図」が含まれています。また小浜市立図書館「酒井家文庫」には収公後、小浜酒井家上屋敷となった直後の「鉄炮洲御屋敷惣絵図」が伝蔵されてい ます。ここでは、赤穂事件以前と以後の変化を如実に物語る二つの屋敷絵図史料を中心に、赤穂事件の概要とその影響を展示します。
 第5章 忠臣蔵の誕生         赤穂事件は、その最中から江戸っ子の耳目を集め、のちの江戸文化において、様々な素材となっていきます。ここでは「若狭野浅野家資料」を離れて、徳 川林政史研究所に所蔵されている片岡源五右衛門関連の古文書をとりあげ、義士の伝説化の動きに注目します。また、江戸東京博物館所蔵錦絵を中心として、赤 穂事件が「忠臣蔵」として江戸文化の中で花開いた様子をご覧いただきます。
 第6章 はたらく旗本三千石           若狭野浅野家は、赤穂事件以後、赤穂本家に連座して「遠慮」を申し付けられ、在任中であった山田奉行を辞任に追い込まれます。しかし、事件後しばら くすると再び幕府の上級役人としての地位を復活させ、歴代当主によって数々の役職が歴任されていきます。事実「若狭野浅野家資料」には幕府役職に関する多 くの古文書が存在します。ここでは若狭野浅野家が幕府のために精勤する姿から、本家大名の失態を職務に励むことで挽回しようとする分家旗本の姿を描きます。
245: 衛星放送名無しさん ID:733kgyxx0
>>244 >>121 第7章 赤穂浅野家と義士の回向
忠臣蔵の人気とは裏腹に、断絶した赤穂本家および本懐を遂げた赤穂四十六士の回向は、幕府をはばかるものでした。しかし、赤穂本家の古文書を引き継 いだ若狭野浅野家は、事件以後、地道にそれらの回向を続けていきます。ここでは、赤穂浅野家の菩提寺台雲山花岳寺(兵庫県赤穂市)の紹介を中心に、若狭野 浅野家による赤穂主従の回向の姿をご覧いただきます。
 エピローグ              明治維新後、幕府をはばかる必要のなくなった若狭野浅野家では、さまざまな思惑のもと、浅野長矩および赤穂義士の復権を歎願し、かれらの名誉回復を はかろうとします。新しい時代における赤穂事件に対する捉え方をこの復権運動からご覧いただきます。関連古文書「(御一新後浅野長矩主従御赦免願)」は必 見です。
主な展示品
おもな展示資料(予定)
・口宣案(豊臣長則(浅野長重))
・浅野長重宛台徳院御朱印状写
・口宣案(浅野長忠(長直))
・浅野長直宛厳有院御朱印状写
・口宣案(浅野長友)
・宣旨(浅野長友)
・口宣案(浅野長矩)
・口宣旨(浅野長矩)
・大石頼母宛山鹿素行血判状(知行指上申度儀ニ付)
・鉄炮洲屋敷図(赤穂浅野)
・(御一新後浅野長矩主従御赦免願)
*すべて、たつの市立龍野歴史文化資料館所蔵、東日本初公開! 展示予定数 約90点
246: 衛星放送名無しさん ID:Ok4u0XeX0
>>242
あれだけの天才を10年ちょっとで潰しちゃったけどな
鳥山明が絵を描こうとすると吐き気がする
なんて状態にしちゃってさあ、それは良かった事なのか

そうしなきゃ、年間何百億を稼ぐドラゴンボールは生まれなかったかもしれんが
どっちが良かったかは分からんね
カネが儲かりゃそれでいいのかと
247: 衛星放送名無しさん ID:733kgyxx0
>>194  最上徳内記念館について - 村山市観光物産協会 https://www.murayama-kanbutu.com/観光スポット/最上徳内記念館/ 最上徳内記念館について             村山市楯岡出身の北方領土探検家である最上徳内もがみとくない(1755年から1836年)は、江戸時代の後期、幕府の蝦夷地検分隊の一員として蝦夷地(北海道)に赴いたのが最初で、その後、択捉・国後などの北方諸島を含めて生涯で9回も訪れ調査をおこない、探検家として高い評価を受けました。この偉大な業績を後世に伝えていくため、書物・測量器・北方の地図・択捉島に建立した標柱などの資料を展示しています。
アイヌの館について           最上徳内が北方を探検する際にアイヌの人達と寝食を共にし、アイヌの協力があって偉業を成功させることができました。このように当時アイヌの人々との交流を持っていた最上徳内を偲ぶために、住居全体が茅(葦)葺きのアイヌの住居(チセ)を敷地内に復元建立し、アイヌの生活用具等の展示をしています。
最上徳内の略歴             最上徳内は、宝暦5年(1755)出羽国村山郡楯岡村(現在の村山市楯岡)に父・甚衛兵(または甚介)、母・スマの長男として生まれました。幼名を元吉といい天明5年(1785)の幕府蝦夷地探検の前年に最上徳内と名乗りました。字は子員、号は鶯谷、甑山、白虹斎と称し晩年には億内とも呼ばれています。
家業は、農業のかたわらたばこ栽培を営み、青年期には隣町谷地の津軽屋に奉公し、仙台・南部・津軽まで行商に出かけたといわれています。父が、徳内に向かって「男子たるものは、若干にして生涯の志を立つべきものである。汝どのような心構えがあるか。」と聞いた際には、「蝦夷一円、本朝開闢以来人倫の教導なしと聞いているが、願わくば一度かの地に入り、かの土人に本朝農民のごとくに耕作の諸事を教え蝦国を上国の風に習わしたい。」と語ったというエピソードが残っています。また二十歳の時、東にそびえる甑岳に登り武士となる決心をしたとも言われています。早くから蝦夷地への思いと武士になる志が芽生えていました。徳内の精神ともいえる信念の強さがここから生み出されたものと思われます。
248: 衛星放送名無しさん ID:733kgyxx0
>>194 >>247 天明元年(1781)江戸に出た徳内は、たばこ屋に奉公しまもなく幕府の医官山田宗俊(図南)について医学を学び、その後、和算の師、永井正峯と算学修業に出かけますが正峯の病気のために中止となります。
この頃、徳内の生涯の師となる本多利明の音羽塾に入門し、天文、測量、航海術を学び、かねてより考えていた蝦夷地への夢が、思わぬ算学修業中止により実現することとなりました。
天明4年(1784)幕府内では、ロシアの南下対策として蝦夷地の開拓と交易を目的とした蝦夷地検分・蝦夷地開拓の議が持ち上がり、老中田沼意次は蝦夷地探検隊を組織し、天明5年(1785)山口鉄五郎・庵原弥六・佐藤玄六郎・皆川沖右衛門・青島俊蔵の5人の普請役を蝦夷地に派遣することとなり、俊蔵と親しかった本多利明も参加することになっていましたが、急病のため利明の代理として最上徳内が、竿取りという身分で参加し歴史上に登場することになります。これ以後1809年まで9回の幕府蝦夷地探検に従事しました。
徳内が従事した蝦夷地探検の中で、重要なこととして天明6年(1786)の探検があげられます。徳内は、単身エトロフ島に渡り、ここでロシア人が滞在していることを知ります。イジョヨ・サスノスコイ・ニケタの3人と出会い、千島が列島であることや欧州地誌を知ることになります。徳内はアイヌ民族の人達・ロシア人3名のほかただ一人の日本人でしたが、歌い、踊りあたたかな三か国人交流がなされました。徳内は、ロシア人を、クナシリ島に来ている隊長の青島俊蔵に会わせ、時期の遅れないうちにウルップ島の最北端まで渡り、日本で最初にウルップ島に渡海した人物となったのです。
249: 衛星放送名無しさん ID:733kgyxx0
>>248 >>194 寛政10年の蝦夷地探検では、徳内は駿河・遠州の山々の監察をしていましたが、急遽、蝦夷地探検を命ぜられました。
この探検は幕府が蝦夷地を直轄地にするためであり、近藤重蔵が隊長となりクナシリ島からエトロフ島を回る渡海でした。
この時、重蔵はまだ若く蝦夷地の経験がないため、徳内を加えてもらおうと幕府に要請し、クナシリ島で徳内と出会い大いに歓迎しています。徳内と重蔵一行は蝦夷舟でエトロフ島に上陸し「大日本恵登呂府」の標柱を建立しました。歴史上初めてとなるエトロフ島までの日本領土宣言です。この二つの探検が徳内を国際的視野に立つ歴史上の重要人物たらしめているのです。
晩年徳内は、長崎から江戸参府としてオランダ商館長に随行してきたオランダ商館長医師シーボルトに出会います。会談の中で、日本・支那・西洋の数学やアイヌ民族の風俗・カラフトの地図などを渡しました。
徳内は数十日間シーボルトとアイヌ語の共同編纂を行います。後にシーボルトは「尊敬すべき老人」「尊敬すべき老友」「今世紀における最も卓越した探検家」と高く評価しました。
徳内はシーボルトの出会いから十年後天保7年(1836)浅草の田原町で82歳の生涯を閉じました。彼の墓は現在、本郷駒込蓬莱町の蓮光寺に葬られており東京都の指定文化財となっております。
250: 衛星放送名無しさん ID:733kgyxx0
The Bunka Rokō (Bunkarokou) was an incident in which Nikolai Rezanov, a diplomatic envoy sent from the Russian Empire to Japan in 1806 and 1807, ordered his subordinates to attack Japanese bases in the north.[1] The name of the incident comes from the Japanese era name, and it is also known by the Russian side as the Khvostov Incident (Russian: Инцидент Хвостова).
Rezanov's ships and subordinates as recorded by the Japanese side Summary Edit This was a military operation launched by Russia in 1804 during the late Edo period, following a trade demand mission launched by Nikolai Rezanov, who was sent by Russian Emperor Alexander I. Prior to this, in 1792, during the reign of Catherine the Great, Russia sent Adam Laxman to Nemuro to request trade with Japan. However, the Edo Shogunate (Japanese feudal government) did not accept the letter from the Siberian Governor-General and instead ordered the ship to sail to Nagasaki in response to the trade request, issuing Laxman a Nagasaki port permit (certificate). In response, in 1804 (the first year of the Bunka era), Rezanov arrived in Nagasaki bearing the certificate and spent six months urging the Edo Shogunate to negotiate, but the Shogunate ultimately continued to refuse trade.
Forced into near-imprisonment and with no progress in the negotiations, Rezanov came to the view that the only way to force Japan to open its borders was by force.[Note 1] He also planned retaliation against Japan, ordering his subordinates to attack Japanese bases in the north, such as Sakhalin and Etorofu Island. In 1806, Rezanov's subordinate, Nikolai Khvostov, attacked the Matsumae settlement in Sakhalin and later attacked the Shogunate forces stationed on Etorofu Island. The Shogunate, under the command of the newly established Matsumae Magistrate,[Footnote 2] conscripted approximately 3,000 samurai from the Hirosaki, Nanbu, Shonai, and Kubota domains to guard key locations in Ezo, including Sōya and Shari.
251: 衛星放送名無しさん ID:733kgyxx0
>>250 However, these military operations were not authorized by the Russian Tsar, and the displeased Russian Tsar ordered all troops to withdraw in 1808. Accordingly, the samurai guarding Ezo from the various domains also began to withdraw. During this series of incidents, there is a record of a sapphire gun (a type of cannon) being stolen from a Shogunate ship attacked on Rishiri Island (see below).[1] Attack on Sakhalin Edit On September 11, 1806 (October 22, 1806), approximately 20 Russian soldiers landed in a short boat at Hisaharukotan, Sakhalin, and abducted a 17- or 18-year-old Ainu child at gunpoint. On the 13th, approximately 30 soldiers landed again, captured four guards at a shipping house, plundered 600 bales of rice and miscellaneous goods, burned 11 houses, and set fire to fishing nets and boats. They then released the child they had abducted the previous day and returned to their ships.
The Russian ship set sail on the 17th and left the area. Because communication was cut off due to the ship's fire, the incident was not reported to the Matsumae Domain and the Shogunate until April of the following year.
252: 衛星放送名無しさん ID:733kgyxx0
>>250 >>251 On April 23, 1811, two Russian ships entered Uchiho Bay, west of Etorofu Island. The guards reported this to the Shogunate's trading post in Shana. Shana, the island's central location and home to the Shogunate's trading post, was guarded by soldiers from the Hirosaki and Morioka domains. Upon hearing the news, Sekiya Shigehachiro, an official under the Hakodate magistrate, led his troops to Uchiho by sea. However, en route, the Morioka domain's guardhouse in Uchiho was attacked, Nakagawa Goroji and five other guards were captured, rice, salt, furniture, and clothing were looted, and the ship was set on fire. He then returned to the ship and received news that it had already departed. Sekiya canceled his trip to Uchiho and returned to Shana to strengthen its defenses.
On April 29, a Russian ship arrived in Shana port. The Bakufu officials, rejecting the opinion of the Hirosaki and Morioka commanders, who insisted on immediate hostilities, first sought an opportunity for dialogue by having Kawaguchi Yosuke, an interpreter under the Hakodate magistrate, wave a white flag and welcome the Russian soldiers as they attempted to land in short boats. However, the Russian soldiers ignored this and immediately opened fire on the Japanese side after landing, wounding Kawaguchi with a gunshot wound to the groin. The Bakufu officials finally acknowledged the difficulty of dialogue and ordered the Hirosaki and Morioka soldiers to return fire, but the Japanese struggled against the overwhelming difference in firepower. As evening approached, the Russians returned to their ships and threatened land with naval gunfire. Commanders Toda Matatayu and Sekiya Shigehachiro, disillusioned by this overwhelming disparity in military strength, decided to abandon Shana and retreat.
253: 衛星放送名無しさん ID:733kgyxx0
>>252 Bakufu officials Mamiya Rinzo and Kubota Ken argued for a fight to the death, but were rejected by Toda and others. Toda, painfully aware of his responsibility for the defeat, committed suicide at their camp during their retreat towards Rubetsu. After arriving in Furubetsu, the group sent some personnel back to Hakodate, while the Hirosaki and Nanbu clan soldiers remained stationed in Furubetsu for security reasons.
On May 1st, Russian soldiers landed at the Shana Shogunate Hall, where the Japanese had withdrawn. They broke into the storehouse, looted rice, sake, miscellaneous goods, weapons, gold folding screens, and other items, and then set it on fire. They landed again the following day, the 2nd, and this time Omura Jigohei, a gunner from the Nanbu clan who had been wounded in the battle and remained there, was taken prisoner by the Russians. [Note 3] On May 3rd, the Russian ship set sail and left Shana.
On June 6th, Omura Jigohei and the guards who had been held prisoner were released and returned to Soya.
 
254: 衛星放送名無しさん ID:733kgyxx0
>>253 >>250 This incident marked the beginning of the flourishing Bunka culture and a renewed awareness of the importance of national defense in a seemingly peaceful Japan. The Edo Shogunate's leaders became aware of the threat posed by Russia, and the Shogunate subsequently sought to maintain its isolationist policy and strengthen its national defense.
Furthermore, tensions in Japan-Russia relations forced the Shogunate to adopt hardline policies both at home and abroad in order to maintain its prestige.[citation needed] This led to the Golovnin Incident of 1811. Furthermore, this incident is said to have inspired Hirata Atsutane to pursue the study of Japanese classics.[1]
In 2010, a study by the Historiographical Institute of the University of Tokyo revealed that many of the items seized from Japan by Russia during the Bunka-Russian Raid were given to the Russian government and are currently housed in the Kunstkamera Museum of Anthropology and Ethnology in St. Petersburg.[1] The items included armor, swords, spears, guns, and other weapons belonging to the Nanbu soldiers, as well as everyday items.
One of the three confiscated cannons, a Franchi gun, bore a seal with the letters "FRCO" written in overlapping letters. This seal, representing the baptismal name of "Francisco," is thought to be one of the "Kuni Kuzushi" (country destruction) techniques used by the Christian feudal lord Otomo Sorin. [2]
255: 衛星放送名無しさん ID:733kgyxx0
生田斗真、一橋治済の孫が松平慶永松平春嶽、幕末の四賢侯、徳川斉昭、島津成彬、伊達宗城、松平春嶽

松平容保の四男が山田顕義、萩明倫館、松下村塾出身で日本大学とかつくったり國學院皇典所とか、
で7卿落ちのの後京都に新撰組や會津藩が警護する潜伏、長州征伐などでは、長州藩の総隊長、新政府征討総督府仁和寺宮総督の征討総督府副参謀をやっていた山田顕義の養子
帝国大学教授の宮崎道三郎と今の日本大学を
256: 衛星放送名無しさん ID:Iyfj0Zpx0
>>1
ありがた山です
257: 衛星放送名無しさん ID:cZHRQXGQ0
小芝風花さんに会いに来たでござる
258: 衛星放送名無しさん ID:FWL2QYZb0
あと4回で終わる
259: 衛星放送名無しさん ID:+If8xY870
ハジマタ
260: 衛星放送名無しさん ID:PUfWZzEy0
1週間のお楽しみはじまた
261: 衛星放送名無しさん ID:IHV/uf0pd
よおし、このスレで知ったことを20:00~の実況でドヤ顔披露するぞお
262: 衛星放送名無しさん ID:EAihNeA90
はじまた
263: 衛星放送名無しさん ID:062FeT/r0
はじまた
264: 衛星放送名無しさん ID:Iyfj0Zpx0
恥股
265: 衛星放送名無しさん ID:ESLYn6vs0
大相撲から
266: 衛星放送名無しさん ID:2rfXfhNq0
あとなにすんの
267: 衛星放送名無しさん ID:062FeT/r0
はじまた
268: 衛星放送名無しさん ID:n7ehCY+c0
なんかいきなりマンガみたいな展開になったけどどうすんだ
269: 衛星放送名無しさん ID:fGqy6PCB0
相撲から来ました
270: 衛星放送名無しさん ID:QtRCGYiz0
で、源内は死んでんの?
271: 衛星放送名無しさん ID:cZHRQXGQ0
源内先生は、狐です
272: 衛星放送名無しさん ID:EAihNeA90
なんか重くね?
273: 衛星放送名無しさん ID:FWL2QYZb0
源内ぐっない
274: 衛星放送名無しさん ID:NChWXnmrx
綾瀬はるか「は?」
275: 衛星放送名無しさん ID:kj8yILOg0
おていさんには隠すんか
276: 衛星放送名無しさん ID:062FeT/r0
まあ狐に化かされたようなもんか
277: 衛星放送名無しさん ID:kAbwSZmB0
>>269
おれもー
278: 衛星放送名無しさん ID:Ak8lHtm90
定信が書いたのか?
279: 衛星放送名無しさん ID:llv1Tcrc0
狐というか反治済派の鵺だった
280: 衛星放送名無しさん ID:48nnWeXR0
ついに蔦重にも頭痛が!
281: 衛星放送名無しさん ID:hNCWITPu0
赤いきつねと緑のたぬき
282: 衛星放送名無しさん ID:dCV7txeo0
どう違うんだ狐と狸の化かしかた
283: 衛星放送名無しさん ID:HND/IU5L0
ふんどしキツネ?
284: 衛星放送名無しさん ID:NChWXnmrx
ふんどしに化かされた
285: 衛星放送名無しさん ID:wsqNx0uhd
狐でも狸でもなく褌です
286: 衛星放送名無しさん ID:SY+9gux90
狐と狸の化かしあい
287: 衛星放送名無しさん ID:EAihNeA90
>>261
じゃ、いっぱいウソ知識書くね(´・ω・`)b
288: 衛星放送名無しさん ID:kj8yILOg0
聡明なおていさんには言っとけ
289: 衛星放送名無しさん ID:IHV/uf0pd
まだ分からんな。
断ったのか妻をこの件から遠ざけたいのか。
290: 衛星放送名無しさん ID:2Yz/Ml/h0
やりますん
291: 衛星放送名無しさん ID:51dNEs190
大相撲から移動
橋本愛さんに抱かれたい
292: 衛星放送名無しさん ID:i4ZSEl+l0
二次創作
293: 衛星放送名無しさん ID:ent1f8ZRH
文才あるやん
294: 衛星放送名無しさん ID:pFPM77sr0
やはり定信か!
295: 衛星放送名無しさん ID:E2fV4h940
お前か・・・(´・ω・`)
296: 衛星放送名無しさん ID:Ak8lHtm90
お前が書いたのかよw
どんな気持ちで書いたんだよw
297: 衛星放送名無しさん ID:kP0H4SdF0
あっしにはかかわりのない事でござんす
298: 衛星放送名無しさん ID:DHBGxrjc0
お前か
299: 衛星放送名無しさん ID:cZHRQXGQ0
定信「写楽になるのでヨロシク」
300: 衛星放送名無しさん ID:kj8yILOg0
そりゃ断わるわな

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