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BS実況(NHK): 2024/11/10(日) 08:00:49
大河ドラマ 光る君へ ★138 (1002)
115: 衛星放送名無しさん ID:kScGk9SP0
七卿落ち
三条実美(27歳:従三位権中納言)
三条西季知(53歳:正二位行権中納言)
四条隆謌(36歳:従四位上行侍従)
東久世通禧(31歳:正四位下行左近衛権少将)
壬生基修(29歳:従四位上行修理権大夫)
錦小路頼徳(27歳:従四位上行右馬頭)
澤宣嘉(28歳:正五位下行主水正)
137: 衛星放送名無しさん ID:kScGk9SP0
>>115 中村は幅広い人脈を持っていたため、財界人から華族まで富裕層が土地を購入、別荘を建てた。大隈重信や犬養毅夫人も苦楽園へ足を運んだが、その当時の写真が残っている。
竹の棒に籐椅子をくくりつけた神輿のような篭に乗って山を登ってきたようで、移動は大変だったと想像される。その篭を担いでいる男たちのハッピには「苦楽園温泉」と記されている。
 この「苦楽園」という名称は、瓢箪の名前に由来している。開発者の中村伊三郎は、家宝としてある瓢箪を大切に所有していた。この瓢箪の名こそ「苦楽瓢」で、そこから苦楽園と命名したという。
この瓢箪は三条実美卿や土方久元伯ゆかりのもので、文久3年(1863)の七卿落ち(尊王攘夷派の7人の公家が京都から追放され長州藩へ落ち延びた事件)の際に死を覚悟してこれで別れの杯を交わしたが、
後に無事で会うことができたことから苦の後に楽ありで「苦楽瓢」と名付けられたという。
阪神沿線の夫人令嬢が集うなど、社交場としても大きな役割を果たすように。歴史に名を刻む文人墨客もこの地を訪ねた。谷崎潤一郎が関東大震災から逃れて関西で初めて身を寄せたのは苦楽園で、
140: 衛星放送名無しさん ID:wedqx6Gm0
>>115
三条実美意外と若いんだよな
翔ぶが如くの角野卓三の印象が
剥げてなかったけど当時はw
166: 衛星放送名無しさん ID:kScGk9SP0
>>137 >>115 楠木正成を祀る神戸の名社|湊川神社(楠公さん)-神戸市中央区 https://www.minatogawajinja.or.jp/about/history_foundation/ 湊川神社 / 楠公会館
兵庫県神戸市中央区多聞通3-1-1
この墓碑の建立によって、正成公の御盛徳は大いに宣揚(せんよう)されるとともに、幕末勤王思想の発展を助け、明治維新への力強い精神的指導力となったのです。
即ち幕末から維新にかけて、頼山陽(らいさんよう)・吉田松陰(よしだしょういん)・真木保臣(まきやすおみ)・三条実美(さんじょうさねとみ)・坂本龍馬(さかもとりょうま)・
高杉晋作(たかすぎしんさく)・西郷隆盛(さいごうたかもり)・大久保利通(おおくぼとしみち)・
木戸孝允(きどたかよし)・伊藤博文(いとうひろぶみ)等々は、みなこの墓前にぬかづいて至誠を誓い、国事に奔走したのです。
徳川光圀公銅像 とくがわみつくにこうどうぞう  御墓所には徳川光圀公(水戸黄門)の銅像があります。
光圀公は、水戸藩主を辞して西山荘(せいざんそう)に隠居(いんきょ)された後も、大日本史の編纂(へんさん)を行うなど活躍され、正成公をひたすらお慕いされて墓碑「嗚呼忠臣楠子之墓」を建立されました。これら御事蹟は天下に顕彰され、偉大な御功績をのこされました。
此の御功績を追慕して御尊の建設が尊願され、昭和30年7月に完成しました。銅像の原型は、平櫛田中の作で、その頌徳碑(しょうとくひ)は、徳富蘇峰(とくとみそほう)の文によるものです。
398: 衛星放送名無しさん ID:I4NMNd800
>>115 三条 実美(さんじょう さねとみ) | 人物編 | 中高生のための幕末・明治の日本の ...三条 実美  (さんじょう さねとみ)三条実美の肖像画
1837年3月14日~1891年2月18日  (天保8年2月8日~明治24年2月18日)
尊王攘夷派の公卿    内大臣三条実万(さねつむ)の子として京都で生まれました。
父は安政の大獄(あんせいのたいごく) [注1] で謹慎の身で死に、その後継ぎとなりました。父の志を継ぎ、攘夷の計画を遂げようと、尊王攘夷(そんのうじょうい)派の公卿として、岩倉具視(いわくらともみ)らを中心とする公武合体(こうぶがったい)派と対立しながら力を強めていきました。
しかし、1863年、26歳の時、八月十八日の政変で攘夷派が京都から追い出されると、蓑笠(みのかさ)にわらじで長州に落ち延びました。(七卿落ち)
その後、太宰府(だざいふ)に移されました。
→ 人物編 : 岩倉具視   → テーマ解説 : 尊王攘夷運動
最後の太政大臣     王政復古の後は京都に戻り、岩倉と並び新政府の副総裁となり、後に右大臣や太政大臣を歴任しました。
1885年に内閣制度ができ、太政官制(だじょうかんせい)が廃止された際の最後の太政大臣(だじょうだいじん)でした。
137: 衛星放送名無しさん ID:kScGk9SP0
>>115 中村は幅広い人脈を持っていたため、財界人から華族まで富裕層が土地を購入、別荘を建てた。大隈重信や犬養毅夫人も苦楽園へ足を運んだが、その当時の写真が残っている。
竹の棒に籐椅子をくくりつけた神輿のような篭に乗って山を登ってきたようで、移動は大変だったと想像される。その篭を担いでいる男たちのハッピには「苦楽園温泉」と記されている。
 この「苦楽園」という名称は、瓢箪の名前に由来している。開発者の中村伊三郎は、家宝としてある瓢箪を大切に所有していた。この瓢箪の名こそ「苦楽瓢」で、そこから苦楽園と命名したという。
この瓢箪は三条実美卿や土方久元伯ゆかりのもので、文久3年(1863)の七卿落ち(尊王攘夷派の7人の公家が京都から追放され長州藩へ落ち延びた事件)の際に死を覚悟してこれで別れの杯を交わしたが、
後に無事で会うことができたことから苦の後に楽ありで「苦楽瓢」と名付けられたという。
阪神沿線の夫人令嬢が集うなど、社交場としても大きな役割を果たすように。歴史に名を刻む文人墨客もこの地を訪ねた。谷崎潤一郎が関東大震災から逃れて関西で初めて身を寄せたのは苦楽園で、
166: 衛星放送名無しさん ID:kScGk9SP0
>>137 >>115 楠木正成を祀る神戸の名社|湊川神社(楠公さん)-神戸市中央区 https://www.minatogawajinja.or.jp/about/history_foundation/ 湊川神社 / 楠公会館
兵庫県神戸市中央区多聞通3-1-1
この墓碑の建立によって、正成公の御盛徳は大いに宣揚(せんよう)されるとともに、幕末勤王思想の発展を助け、明治維新への力強い精神的指導力となったのです。
即ち幕末から維新にかけて、頼山陽(らいさんよう)・吉田松陰(よしだしょういん)・真木保臣(まきやすおみ)・三条実美(さんじょうさねとみ)・坂本龍馬(さかもとりょうま)・
高杉晋作(たかすぎしんさく)・西郷隆盛(さいごうたかもり)・大久保利通(おおくぼとしみち)・
木戸孝允(きどたかよし)・伊藤博文(いとうひろぶみ)等々は、みなこの墓前にぬかづいて至誠を誓い、国事に奔走したのです。
徳川光圀公銅像 とくがわみつくにこうどうぞう  御墓所には徳川光圀公(水戸黄門)の銅像があります。
光圀公は、水戸藩主を辞して西山荘(せいざんそう)に隠居(いんきょ)された後も、大日本史の編纂(へんさん)を行うなど活躍され、正成公をひたすらお慕いされて墓碑「嗚呼忠臣楠子之墓」を建立されました。これら御事蹟は天下に顕彰され、偉大な御功績をのこされました。
此の御功績を追慕して御尊の建設が尊願され、昭和30年7月に完成しました。銅像の原型は、平櫛田中の作で、その頌徳碑(しょうとくひ)は、徳富蘇峰(とくとみそほう)の文によるものです。
369: 衛星放送名無しさん ID:I4NMNd800
>>137 この頃はまさに阪神間モダニズムの時代で、電鉄会社や土地会社による行楽地や住宅地、あるいはこれらをミックスした保養型住宅地の開発が盛んであった。その背景として交通の発達や、電鉄会社の積極的な投資、大阪の発展による資本の蓄積、大阪都心の環境悪化による郊外への移住などさまざまな要素が挙げられる。
西宮ではこの類の開発がいくつかおこなわれ、やがて「西宮七園」とよばれるようになり、苦楽園もその1つに数えられている。苦楽園は香櫨園、甲陽園、甲子園と同じように、レジャー的要素を絡めながら開発が進んでいった。
 しかし、行楽地としての苦楽園は、致命的なマイナス点を抱えていた。それは交通の便である。前述のとおり、交通機関は人力車や馬車、せいぜいタクシーだったため、輸送力は限られていた。
 そこで浮かび上がったのは、阪神西宮駅から苦楽園を結ぶ摂津電気軌道や、甲陽園と苦楽園を結ぶ武庫電気鉄道株式会社、香櫨園から三笑橋を結ぶ摂津電気自動車などの計画である。
ちなみに電気自動車はトロリーバスのことで、香櫨園の海水浴客を苦楽園へと誘引する役割も期待されていた。
当時の新聞報道によれば、摂津電気自動車開業のあかつきには阪神電車は苦楽園に娯楽施設を設置し、宝塚にならって歌劇などを上演する計画も温めていたようだ。しかし、電車もトロリーバスも苦楽園へ上ってくることはなく、計画は幻となってしまった。
401: 衛星放送名無しさん ID:I4NMNd800
>>398 >>137 西園寺氏 三つ巴 (藤原北家公季流)
 西園寺氏は藤原北家閑院公季に発し、その子孫公経が山城国葛野郡北山に別業西園寺を造営して西園寺殿と呼ばれ、以後、家名となったといわれている。
 ところで、南伊予の宇和庄は橘氏が代々所領として持っていたものを、西園寺氏が奪おうとしたものである。「吾妻鏡」に、橘公業の支配する宇和郡を、西園寺公経が長年望んでいたと記している。橘氏が失敗もないので、幕府は応じなかったが、結局、要望をいれ、公経の子常磐井入道実氏の所領となった。
 西園寺氏は宇和郡を支配するといっても、代官に統治させ、宇和庄を領家として経営したのである。実際に現地に土着するようになるのは、実氏の後裔で西園寺家の庶流公良が下向したのに始まるという。いずれにせよ、南北朝時代から伊予の西園寺氏の活動が始まる。本拠とした松葉城に拠って、宇和地方の在地豪族を傘下におさめ、守護大名的な活躍をする。
 実充のころ黒瀬城に移り(子の公高のころともいう)、次第に城廓の規模も城下町も整備されっていった。公高は宇都宮氏の軍と戦い、飛鳥城で戦死しやので、実充の弟公宣が継ぎ、さらに公広に至ったという。
 しかし、このころの西園寺氏の系譜には混乱があり、はっきりしない。とはいえ、戦国末期の公広の代に至り、河野・毛利・大友・一条・長宗我部の間にあって外交的にも軍事的にも苦しみ、内部では麾下武将の反乱や内訌に悩まされ、天正十五年、公広は大洲で非業の最後を遂げ、名門西園寺氏は滅亡した。
443: 衛星放送名無しさん
全姉妹クロスが生まれる
https://i.imgur.com/4uLHW9J.jpeg
541: 衛星放送名無しさん ID:98gklV5e0
>>443
なんか変です...
560: 衛星放送名無しさん ID:fKolLf1d0
>>443
危険な配合です
678: 衛星放送名無しさん ID:AY1PHBLw0
>>443
藤原道長の3×3か
533: 衛星放送名無しさん ID:2uAkwinHd
名前覚えるのが大変だから全員名札着けてくれ
名字だけでいいから
546: 衛星放送名無しさん ID:5MZG5ToX0
>>533
全員藤原
571: 衛星放送名無しさん ID:d+UJSDAS0
>>533そうだよな
581: 衛星放送名無しさん ID:aT8EAB8J0
>>533
藤原…
544: 衛星放送名無しさん ID:lE5FDvZRr
お上の政に天がお怒りって
実務のトップならそんなオカルトじゃ無くてもっと合理的に考えて欲しいな
577: 衛星放送名無しさん ID:MfZSwQnQ0
>>544
むしろこういう思想がなければ為政者がやりたい放題
580: 衛星放送名無しさん ID:XRkCD84n0
>>544
陰陽師が権力を持てるくらいの時代だから
660: 衛星放送名無しさん ID:Mcra8/XCd
>>544
今でも、天災が起こると政府がーとか岸田がーとか言う癖に(´・ω・`)
729: 衛星放送名無しさん ID:Gz6N2iV40
>>544
わかっていても政治利用するんだよ
775: 衛星放送名無しさん ID:AY1PHBLw0
刀伊の入寇ってまだ起きてないんだっけ
789: 衛星放送名無しさん ID:fKolLf1d0
>>775
望月の数年後
790: 衛星放送名無しさん ID:jcXKfeBs0
>>775
まだだね
858: 衛星放送名無しさん ID:H+mzmN1Tr
>>775
1019年